昭和49年03月18日 月例祭


 信心生活をお互いさせて頂いて居る訳ですが、「信心生活の虚と実」と言う様な事でお話を聞いて貰たい。信心生活の虚、「虚」とは嘘と言う事。「実」と言う事は本当と言う事。いわゆる嘘と真と言う事です。お互いせっかく信心させて頂くのですから、いよいよ本当なものを頂いて、愈々本当な信心をさして貰うて、愈々本当な道を歩かせて頂く。所謂真の道を歩かして頂くというおかげを頂きたいと思います。
 今朝方から私、お夢を頂いて、どう言う様な意味の事か解らなかったけれども、とにかくもう寒心に絶えない。もう心が寒うなる様なお夢であった。今日の教典を開かせて頂いたら、御神訓の「天に任せよ 地にすがれよ」という御神訓にもとついての御理解。その中で私は、ただ、今の事を皆さんに聞いて頂いた。お夢の事とその「天に任せよ 地にすがれ」と言う事。
 天に任せて地にすがると、何か愈々もうギリギ理の字例えて言うならば、病人が盲医者にも見離されたね。薬にも見放されたと言う様な時に、是はもう愈々神様にお縋りするより他にはない。もうそれこそ運を天に任せてお縋りをすると言った様な時に、頂く様な御教えの様に思うておったけれども、今日の御理解を頂いておるとそれもありましょう。けれども実は私共の信心生活の日々の中に、この「天に任せて地に縋る」という信心がなされなければならないと言う事を改めて気付かせて頂いた様な訳でした。
 そのお夢というのは、かい摘んでいうとね。此処のやっぱり御信者さんなんです。中々雄弁な、お話の上手な方なんです。その方がねとにかく一生をもう嘘で固めたと。私今日おもしろいんですね。その狐と狸の騙し合いと言うですね。世の中もうとにかくそう言う真はない。もう嘘と嘘とのいわゆる、騙し得た者が勝ちだと言う様な、その狸とね狐がこう言う風になってから、一つの紋の様になってるんですよ。それがグルグルグルグルこう回ってるですから、丁度狸と狐がこんな具合なんです。
 一つの図案化した様なね、紋の様になってるです。その人の言うのにはね。そういう嘘から嘘を言う様な、言うならば廻りのそういう家風なんだ。もう親の代から嘘ばっかり言うちょる。と言うてなら、その白を赤と言う様にうそを言っておる訳でも無かろうけれどもです。信心生活さして頂いておりましても、言わば知らず知らずの間に、本当の生き方をしてないと言う事ならば、是はその方だけの事ではなくて、皆の人の上にそれが言えるだろうと思うです。
 私は本当だと思うておった。所が信心を段々判らして頂く様になったら、今までの思い方は間違いであった。そこに言わば本当よりもっとより本当が判った。なお信心を進めておったら、より本当な事が判ったと言うのですから、矢張り嘘の生活をしておったと言う様なことに成るかも知れません。例えてまあ極端な例を以て言いますと、泥棒というのはね、それこそ元手なしでガバガバ盗って来る訳です。けれども泥棒で金持ちになったという類例がない。今までかつて。という程にです。
 是は言うならば嘘を言うたり、悪い事をしたりして、本当のおかげがあるはずがないと言う事なんです。泥棒はしないし又はそんなに、うそ付きはしておるとは思われないけれどもです。何時の間にかそういううそを嘘と知りながら、それを次の真を求めて行かない生き方というのは、そういう結果になる。おかげは受けても、いわゆる本当におかげになって行かない。金光様の御信心は、どこ迄もいよいよ本当な物を、目指さして貰うと言う事。真と言うても限りがない。
 その限りのない真を、真から真を追求して一生がかりで、いや魂の世界に入っても尚且つ真実を求めて、魂が進展して行く、魂の位が進んで行くことのためにはそういう働きの、言うならそういう術と言う物を、ど言う風にして信心を進めて行くか、どう言う風にして魂を清めて行くかと言う事を、私共が基本的な所をしっかり頂いて、そこへ踏んまえて、日々信心生活がなされなきゃならない。そして是で良いと言う事ではない。何時もがさらなものを目指して、より本当な事を目指して行くのです。
 あれは親鸞上人のお言葉でしたかね、もう九十何歳という御晩年の頃に仰られたというお言葉の中に、「この世のこと皆空言だ」と。世の中の人からは生仏様のように言われた親鸞様がです。今まで自分が踏み行のうて来た事は、皆んな空言であった。嘘であったと。「この世の中に真ある事なし」と言われた。私はその意味がどういう意味か良くは判りませんけれども、今日は私そんな気がするんです。
 で今朝の御理解を頂き終わってから、色々思わせて頂いとりましたら、「信心生活の虚と実」と言う事を頂いた。「虚」というのは嘘。「実」と言う事は真と言う事である。ね。真実の実です。そこで私共は諺にも申します様に、言わば「嘘から出た真」とこう言う。今日本当だと思うておった事が、嘘である事に気が付いた。其処から次の真が生まれて行く。だから信心はもう極まりないもの、限りがないものだと。
 多くの大宗教家が出られました。または素晴らしい頭脳の哲学者達が勉強し得た所ね、是が本当だとまだ言い得た宗教家も哲学者もないと言う事実。これは厳密に言うと教祖生神金光大神だって同んなじなんです。教祖金光大神の言わば境地と言うが、その境地だってです。言うならば、ピンからキリまであると言う事なんだ。厳密に言うてどれが本当だと言う事は、まあだそれを確証付ける何ものもない。それが現代の宗教であり哲学だと言われております。
 そこで私共はです言うなら所謂教祖様の信心姿勢である所の、「是で済んだとは思わない」と言う生き方を以て教えを頂いて行く内にですね。言わば依り本当な事が明らかになって来る。しかもその依り本当な事には、依り本当なおかげが伴うて行くと言うところに、教祖金光大神の信心の素晴らしさがあると私は思う。ですから是が本当だと、言わば頑固にもそれを思い込むと言う事は、思い込みと言う事は良いけれどもです。
 より本当な事だと、言う事を判らして頂いたら、そこをスッキリと、それこそスンナリと、次の依り本当な事へ、切り替えて行けれる、一つおかげを頂かなければいけません。成程嘘の生き方でも、御取次を頂いて、お願いをして行くのですから、おかげは受けます。けれども、本当のおかげになって行かない。力になって行かない。お徳になって行かない。光にならない。取分け只おかげおかげと言うて、かげの様な物だけを、追い求めておると言う事はです。
 私が今日夢の中で頂きました様にね、その方がギリギリの所へ追い詰められて、助けて下さいとこう私の言うなら懐に飛び込みたいという感じである。けれどもそこに私手が届かない所を頂いた。その人の前をです。その人が大変可愛がっておった人がすうっと通ったんですけども、その人がその人に縋って助けてくれとこう言っておるけれども、そ知らん顔でそこを通り抜けて行く、その姿を見て、ああ本当に浅ましい事だなあ。空々しい恐ろしい事だなあと言う様な実感の中に今朝お夢が覚めた。
 成程自分は嘘から嘘を言うてもう嘘を言い済ました様に思うておった。この生き方でもうごまかし得ると思うておった。所がギリギリの事になって来た時にです。ね。是でいかんと判った時には既に時遅かった。それで此の人だけには自分は真実を持って来た。此の人だけには真実の愛を以て注いで来た。あんただけには真実他の者には嘘を言うておったけれども、あんただけには本当の事を言うたりしたりして来たという其の人がです。其の人の姿を見て見て見らん振りしてそこを言わば其の人からも裏切られた。
 哀れな言うなら様子と言う物を今朝のお夢の中に頂いてです。今朝天に任して地にすがると云う事は日々の信心生活の中に、この任した生活と言う物がいるんだと言う事。只なら任せ切りと言うのではなくて地にすがると言う所の信心がいるのだとね。私共の心の上を、依り本当な事が判らして貰うね。中々依り本当な事が依り本当な事にスムーズに心が切り替えられない所にです。
 人間の業が感じられますね。私共が日々自然の、大自然の働きの中にです。いわゆる生かされて生きておると言う事実を分らしてもらうて、その生かさなければおかない力による生き方。言うならその天地の親神様の御神愛によって生活をさして頂くという生き方。そこにはその偉大なるもの、その天地の親神様の御働きに委ねなければいけないと言う事を先ず教えられる。
 私もそう言う様な事がそんなに尊い事は知らなかった。ただ苦し紛れにね、とにかく様々な修行をさして頂いたね。様々な修行もさして頂いたけれども、それにはもう限界がある。そこで最後に思い付かせて頂いたのは、言うなら自然、天然自然に私の上に起きて来る様々な問題その事柄、それを私は一つ黙って受ける事を修行にさして頂こうという神願を立てた。まあそれから様々な事が御座いました。
 今から考えて見てようもまあ、ああ言う様な事が受けられたもんだと思う様な事を、けれどもその時点では、もう腹を決めておりますから受ける事が出来た。それがですね。言うならば、天地の親神様の氏子に対する、ところの願いであったと言う様な事が、はっきりしたのは、もう四年半目であった。そして「ははあ真の信心の道というのは、こういうところにあったんだ」と言う風に気付かして頂く様になった。言うならば厳しい、自然との対決の中にです。
 私はその対決をしながら、ある場合は勝ったり負けたりもありましたけれども、けれどもそれによっておかげを頂いてきた。それによって力を得て来た。先程も若先生が言ってました。今日は北九連の青年教師の方達のソフトボール大会が久留米受け持ちであった。「どんなふうだったか」と言った所が、「もう散々に負けた」とこう言う。もう甘木辺りはもう毎日の様に稽古をしておられるそうですから、もう全然歯に合わない。手に負わない。「二十四対何と言う位な、ひどい負け方であった」とこう。
 だからこう言う様なだったらどちらも面白くないですね。負けたかと思うたら、勝った。勝ったかと思うたら、また負けたという。それであって面白いのである。信心でも願いは願ったら、すぐにおかげを頂くと言う事になったら、もう信心は一ちょ面白う無かろうと思うですね。どげ思うですか只皆さんは、お願い通りにならんと、神様がおかげば頂かせてくんなさらんごと言うね。けれどもその、おかげを受けたり受けなかったり、思う様になったり成らなかったりと言う所にです。
 その思う様になった時は有難い。思う様に成らなかったらグラリするという生き方ではなくてです。言うなら、負けても勝ってもその中が、むしろ負けた時こそ、言うなら、大いに反省さして頂く時であり、大いにもう一段と、信心を進めなければならない、という時であるのですからね、そういう生き方を身に付けさせて頂く。そして私は、言うなら真の信心の入口というのは、願いが成就して有り難いならばです。ね。
 それが反対の事になった時にも、有難いと言う答えが出て来る、生き方を真の信心を進めておる人の、信心姿勢だと言う風に思うです。願いが百発百中ね、願い通りのおかげを頂くと言う事は、だから真意でもなからなければ、それは本当ではないということです。その願いが成就したりしなかったりの中に、言わば人間が成長して行くのであり、心がいよいよより高められ清められて行くという生き方を身に付けて行かなければならない。そういう時にです。いわゆる「天に任せる」という信心。
 どうにもしようがない。そして大地に平伏す。今日の御理解でした。「天然地念」と言う御理解でしたね。「天然」と言う事は自然の然である。「地念」というのは地に念ずると言う事。「天に任せて地にすがる」というそれと大体同じ様な内容を持つ御教えだと私は思います。私共が本当にその天然のおかげを頂かして貰うてね、自然の働きをどんなに正面からそれを受けさせて頂いてもそれを合掌して受けて行く、生き生きとした信心の喜びを持っておかなければならない。
 そして自分自身の心にすがる。所謂「地念」と言うのはね、「どうぞ大地の様な心にならせて下さい」と言うて縋る。自分の心の中に愈々豊かな大きな、しかも泥の様な、一切を黙って受けて行けれる、受けるだけではないその心をいよいよ清めたり、又は心の糧とも成らせて頂く様なおかげを頂きながら進めて行くというのである。「天然地念」。私は「信心生活の虚と実」と言った様な事を一番最初に申しましたが、例えば私は今日皆さんに聞いて頂いたんですけれども、もう私共は此処にそうですね。
 もう三十年近くになります。十何人の家族の者が、まあだ薬を一服も頂かない。言やあ薬箱すらもない。是はどうした事だろう。皆が此処で本気で信心の稽古をなさっておる内には、もう愈々今日は北野の秋山さんが言うた様に。「この頃先生そげん言えば、私の方も薬箱やら薬袋があったけれども、もうこの頃どこに行ったやら判りません。薬袋がなくなってしもうとります」とこう言う。という程しにおかげを頂く道があるのだ。成程例えば病気をすれば、医者にも掛かる。
 薬も飲まして貰うね。御取次を頂いてね、薬の事も医者のことも、お願いをして行けば、もうそれで良いのだという思い方がですね。一生続いたとするならば、それはもう嘘の生活です。もっと本当な事があるのです。是は二十年も前でした。久留米に隅田先生がお見えになりました。お父さんの方、お話に、その時に、何か質問をする時に、文男先生がまだ青年時代、「先生あなたはあのう、病気をした時に薬をお飲みになりますか。医者に掛かられますか」と言うて質問した。
 そしたら文男さんの顔ばっか見よりなさったが、「金光様の信心して病気するですか」と仰ったそうです。薬を飲むとも、医者に掛かるとも言われなかった。「金光様の信心して病気するですか」ね。そういう事実、そういう世界があるんです。けれどもほんなら例えば、祈れば良い、御取次を頂いてならば、と言うてそんならそれを一生繰り返しておったんでは、一生薬に頼り、医者に頼らなければならない。
 頼らなければならないと言う事は、何時も病気をすると言う事になるのです。是は言うならば、それも嘘ではない。けれども依り本当の世界がある。私共何十年間という、しかも十何人の家族を擁しながらです。一服の薬も、医者に手を握って貰った事もない程しのおかげを受けておる事実がある。ああいう本当の生き方があると言うならばです。私はその本当な生き方を見習わなければいけないと思う。
 今日の御理解の中に、私は朝の御祈念に、御祈念の中に、初めてそういう言葉を以て御祈念させて頂いたんですけれども、士農工商的おかげの事実をです。よりもっともっと密なるものにおかげを頂きたいと言うお願いをさせてもらった時に、カチッというおいさみを頂いた。是はね行き届いた、言うならば足ろうたおかげと言う事。健康ではあるけれども、おかげがないお金がない。お金はあるけれども健康でない。
 所謂おかげがチンバ踏まない。足ろうておる万事に。私の方の四人の息子達がです。もうそれこそ期せずしてです。若先生が普通高校、二番目が農学校、三番目が工業学校、四番目が今年商業学校を卒業した。士農工商であった。初めから計画してそうして行ったんじゃなかった。受けたけれども出来なかった。と言った様な事が、結局そう言う事になっておった。
 後々で考えて見たら、それはもう「世界中の全ての氏子の姿だ」とまで神様は言うて下さった。偏ってないのだ。ね。この士農工商の中に全部の人間氏子があるのだ。その全部が一様におかげを頂いて行くのだ。しかもそれがです。もっともっと未知なるもの、もっともっと高度なおかげになって行く事を願わして貰った時に、神様はおいさみを以て答えて下さった。だから昨日はその御理解を聞いて貰った。ね。
 さあ此処にその希望校、例えばその学校に受からなかったと。それでなら金でも使うてから入学する。もう大変な不自然な生き方なんです。もう其処からです自然を破いてしまう。もう神ながらな言うならおかげと言う物の世界から、もう逃れてしまわなければならないと言うて、なら今日も私が一番初めからです「薬も飲むな医者にもかかるな。それが本当の信心だ」と言うても「合楽に参るならば薬も飲まれん」と言うて参らない人があるかもしれんから。
 そこん所は御取次を頂いて、薬を飲んでおかげを頂いてね。そして段々教えを頂いて行く内に、段々段々薬も飲まんで済む、医者にも掛からんで済む程しの本当の生き方、是は健康の事だけじゃない。薬、医者だけの事ではない。一切全てがです。そういう自然の働きをそのままにスンナリと受けて、そしておかげがスンナリと言うならば、平たいおかげになって来るという、おかげを願わしてもらう。
 こういうおかげと言う物はです。なら現在合楽で頂いておる其のおかげというのが、是で良いとは思われない。もっともっとおかげを頂きたいならば、なら「是で済んだとは思わん」という信心が矢張りおかげを頂かせて貰うて、何処にか信心のより本当な事に手掛りがあったならば、足掛かりがあったならば、足をそこに進め、手をそこに立てて行かなければいけないと言う事を今日は聞いて頂いたんです。ね。
 皆さんの思い込みというのは、皆もう「私はこの流儀で行く。是でよか」と言う事はありません。ありませんじゃない。それはもう嘘の信心生活と言う事になるのです。もう限りない言うならば、進展を遂げて行くという生き方を身に付けて行かなければならん。いよいよ天に任せて地に縋らして貰う。それはもう、血の涙の出る様な事も、ありましょうけれどもです。それを一つ、おかげを頂いて行かなければならない。それを縋って行かなければいけない。
 今日ある方がお参りして来た。二人の娘さんがある。一人姉の方は「はい」と言う事をもう言い過ぎるくらい「はいはい」と言う。妹の方はどげん言うたっちゃ、いんやちゅうて頭をぐるっと向けて「はい」と言わん「どうしてはいちゅ言わんの」と言うと、反発して来る「先生もちっと是が素直になるごたる」ちゅうから、なら姉がごとなんでん反発せんごとなったら良かたいのちゅうた事でした。そして私は聞いて貰うた。
 今朝からね、そこの合楽食堂のお母さんが毎朝参って来る。所謂嫁と息子と三人暮しである。まあ言うなら若い者が言うたりしたりする事が非常に目に余る事がある。もう朝なんかでも、もう遅うまで起きてから、結局お母さんが起きて色々してあげないけん。ね。だから「親先生がもう言うな言うな」と仰るから、言わずに黙って持って行くと。言わんから、なお増徴すると言った様な風ではない。
 昨日もある事で、こりゃ少しばっかり言うとかにゃと、ほんのちょこっとうっかり言うた。神様にお願いして、そしたらねさんずいへんにムと頂いた。口という字を入れると治めると言う事になるでしょう。さんずいを書いてカタカナのムと頂いた。そして口の字がないです。こんな字はない。親先生が何時も言われる様に、「黙って治め、黙って治め」と仰るが、黙って治めると言う事が本当なんだ。十のうち例えば一つでも二つでも言うたら、もう口が無くなった様なもの。
 それではもう治めると言う事にならないです。無口で愈々黙ってその目に余る様な子供達や嫁達姿を見ながらもです。是は自分の例えば姿だと思うて、私が改まって反省して神様に縋って行く、願って行くと言う生き方になって来る時に、それが本当の物に成って来る時に、治まるのが本当のおかげだ。言うて聞かせて解らせるそう言う事もありますけども、それは本当の本当ではない。言わずに黙ってねだからその話をしたんです。
 丁度あんた方、今日は中村さんが頂いた様に、さんずいへんにムという字の所、だから口の所をいや、本当に一つ言わんで済む、そして自分が愈々所謂「天に任せる」と言う事はそう言う事。言わずに神様にお願いをする。そして地にすがると言う事はです。その姿が自分の心の中にあるんだととも取らして貰うて、其処を改まって行くと言う時に、地に縋らなければとても出来ない事なのだと言う訳なんです。そういう生き方を繰り返し、身に付けて行く所にです。
 もうそれは、もう教祖金光大神の例えばあらゆる宗教があります。けれどもあらゆる宗教の一番最高峰を私達教祖金光大神に置きます。だからなら、是で済んだと言う事じゃー無いんですまだ教祖様の場合では、その生神金光大神という程しの、言うなら境地というかではあるけれども、それは本当のまだ極致ではないと言う事なんです。と言う程しに、真実から真実を求めて行くと言う生き方を教祖は私共に教えて下さる。「それは是で済んだとは思わん」と言う姿勢である。
 それにんなら少しばっかり信心が出来たと思うて、是が本な事と思うた事を思い込んで、そしてそれを一生それを続けると言った様な信心は、それはもう嘘の生活になる。私共の言うならばです。過去全てがね、言うならば、親鸞上人様ではないけれども、「この世に真ある事なし」そして現在頂いておる事ですらも、明日は、嘘になって行くかも判らない。と言うて、生涯掛けて真実を求めて、言やあ追求された。
 というのが親鸞上人の信心だと思うんです。教祖様も、やっぱり然りと言う事が言えると言う風に、今日は私は思う。もう生神金光大神が、最高であるけれども、それはもう、いよいよギリギリ、決定版と言う所ではない。なら教祖様ご自身が、なら魂の世界、神様の世界で、其処んところ、是で済んだとは思わんという、御信心修行があっておられるのであろうと私は思う。
 私共もだからなお今日の信心から、また明日への信心という進展を願っての姿勢、願ってのおかげを頂いて行かなければならん。金光様の御信心は、それが本当か嘘かと言う事はです。もうはっきりともう其処に、自分の心の上にも形の上にも、おかげを以て示して下さい。おかげを以てそれを実証して下さる。そこんところが私有難いと思うですね。
   どうぞ。